ジャンジェネを見て。/いじめについて。
2004年4月25日 その他深夜に新日本プロレスリングを見て
そのあとに堂本光一君が司会をしているジャンジェネ
(討論型情報番組)を見た。
テーマは「ロリコン」。
秋葉原のヲタクと呼ばれる人やアイドルオタク、
そしてティーンネイジャーオタクと呼ばれる人まで
幅広く特集していた。
現役女子高生から現役ヲタの人までそれぞれそろい
テーマについて語っていた。
番組内で「女性が社会的にも強くなっている」「共働きによる母親へのマザーコンプレックス」などが最近のロリ化を促してしまっているのだという。個人的には、低年齢の異性に対して性的衝動を表現することは
俺は否定はしない。
でも、誰かのココロを傷つけたりトラウマとして相手に
ショッキングな思いをさせてしまうことはしてはいけないと思う。
憲法にもあるように「思想の自由」
公共の福祉に反しない限りは(つまり心の中に思っていて
表面上の行動としてあらわさない)俺はいいと思う。
そういうことを通して発散している人もいるし、
個人の趣味だから誰も否定すべきではないと思う。
しかし、去年12歳くらいの女の子4人が東京に遊びに来て
男にマンションに監禁されるという事件が起きたり
某有名私立大学大学院の教授がパンツ盗撮で捕まったりと
よろしくない状況である。
世間一般で「ロリコン」というのは「暗い」「キモイ」「うざい」
などと思われているらしいが
援助交際を例に取ってみるように、お金が欲しくて体を売るという少女側(供給サイド)とカラダが欲しくてお金を売るという男側(需要サイド)の利害が一致しているために起こっている。
性的欲求を金銭的に絡めているということである。
さて、風俗というのはなんのためにあるのだろうかと
思ったとき、性的欲求のはけ口と俺は認識している。
例えば、イメージクラブ。
これは、自分がしたかったHや性的行為を
お金を払う(対価を払う)という代償と引き換えに
自分の満足(効用)を満たすという経済的行為だ。
風俗で自分の性的欲求を満たすことで「公共の福祉に反しない」ようにして生きていくのが懸命だろう。
P.S パネラーとして元暴走族総長の宇梶剛志がいたが
正直彼の言動には解せないところが多々あった。
暴走族というのは夜ミンナが寝静まるかもしくはそれに等しい時間帯に自分たちの欲求不満を「公共の福祉に反して」公共の物である
道路という場所で他人に迷惑をかけて効用を満たす暴走行為をしていた。
暴走行為をしている本人たちは気持ちいい、つまり効用最大化だと思う。しかし、周辺住民の人々の迷惑を考えればとても許せない行為だ。
彼は元暴走族総長ということで数多くのトーク番組でも活躍しているのだが、自分の犯した過ちをむしろ武勇伝のように語り自分の生活の糧として生きている。
「100人VS1人で戦って勝った。」とかちゃんちゃらおかしい。
過去に自分がした過ちを棚に上げて偉そうなことを言っている彼にとても苛立ちを覚えた。
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いじめについて。
人間は群れて生きたがる動物であり(特に日本人はその傾向が強いように思われる。)自分とは違うものに対して違和感を感じ
排除もしくは無視しようとする。
これは俺の生きてきた人生経験から基づく人間の定義である。
いじめはいけない。
確かにそうだ。
正直やられている方は地獄であり、やっている方は単なる
暇つぶし的な感覚でしかないと思う。
成人式もあり同窓会があった。
当然同級生とも出会うわけだが、かつて俺を仲間はずれにした
集団とも会った。
あちらから会話をしてきたが当然懐かしいね〜ぐらいの
内容に過ぎなかった。
決して過去のことに触れなかったのはいうまでもない。
別に何かを求めているのではないが、いじめた側というのは
いじめられた側の気持ちなんて到底知る余地もないだろう。
俺ははっきり覚えている。
正直、死にたいと思ったこともあった(自分は臆病なため死ねなかったが)。
いじめられることで人生が壊れる奴も中にはいる。
正直俺も性格が多少歪められたことは事実だ。
それに過去と比べ断然人前で話すことが苦手になったし
人に否定や怒られることが怖くなって臆病になった。
自覚しているだけマシかと思うが辛い。
つらいことを乗り越えて今の俺がある。
つらいことを乗り越えたからこそ他人への思いやりが持てる。
「優しすぎる」って理由で振られてもまた人を愛そうって思える
でも辛い事を経験した人は必ずどこかで逃げ道を作る。
俺の場合はチャットだ。
3Dチャットで依存していた時期があった(現在進行形でもある
正直現実逃避できる時間が多少ナリともなければ自分という人間は原型を保っていられるだろうか?
そう思うときもある。
今日の日記はとても重い話であるが
特にいじめについては
俺は決して癒されることのない傷を2,3個負っている。
今その犯人に謝罪されても決して癒されることもないし
それで満足かというとそうでもない。
今現在ではむしろどうしていじめをやめさせるように
自分が工夫しなかったのかと少々自己嫌悪的な部分もある。
いじめを通して自分が良くなった分と悪くなった部分の両方あった。
しかし、悪くなった部分の方が多くて
それを自分なりに良くしようと模索して
今を生きてる。
それが20歳の俺。
そのあとに堂本光一君が司会をしているジャンジェネ
(討論型情報番組)を見た。
テーマは「ロリコン」。
秋葉原のヲタクと呼ばれる人やアイドルオタク、
そしてティーンネイジャーオタクと呼ばれる人まで
幅広く特集していた。
現役女子高生から現役ヲタの人までそれぞれそろい
テーマについて語っていた。
番組内で「女性が社会的にも強くなっている」「共働きによる母親へのマザーコンプレックス」などが最近のロリ化を促してしまっているのだという。個人的には、低年齢の異性に対して性的衝動を表現することは
俺は否定はしない。
でも、誰かのココロを傷つけたりトラウマとして相手に
ショッキングな思いをさせてしまうことはしてはいけないと思う。
憲法にもあるように「思想の自由」
公共の福祉に反しない限りは(つまり心の中に思っていて
表面上の行動としてあらわさない)俺はいいと思う。
そういうことを通して発散している人もいるし、
個人の趣味だから誰も否定すべきではないと思う。
しかし、去年12歳くらいの女の子4人が東京に遊びに来て
男にマンションに監禁されるという事件が起きたり
某有名私立大学大学院の教授がパンツ盗撮で捕まったりと
よろしくない状況である。
世間一般で「ロリコン」というのは「暗い」「キモイ」「うざい」
などと思われているらしいが
援助交際を例に取ってみるように、お金が欲しくて体を売るという少女側(供給サイド)とカラダが欲しくてお金を売るという男側(需要サイド)の利害が一致しているために起こっている。
性的欲求を金銭的に絡めているということである。
さて、風俗というのはなんのためにあるのだろうかと
思ったとき、性的欲求のはけ口と俺は認識している。
例えば、イメージクラブ。
これは、自分がしたかったHや性的行為を
お金を払う(対価を払う)という代償と引き換えに
自分の満足(効用)を満たすという経済的行為だ。
風俗で自分の性的欲求を満たすことで「公共の福祉に反しない」ようにして生きていくのが懸命だろう。
P.S パネラーとして元暴走族総長の宇梶剛志がいたが
正直彼の言動には解せないところが多々あった。
暴走族というのは夜ミンナが寝静まるかもしくはそれに等しい時間帯に自分たちの欲求不満を「公共の福祉に反して」公共の物である
道路という場所で他人に迷惑をかけて効用を満たす暴走行為をしていた。
暴走行為をしている本人たちは気持ちいい、つまり効用最大化だと思う。しかし、周辺住民の人々の迷惑を考えればとても許せない行為だ。
彼は元暴走族総長ということで数多くのトーク番組でも活躍しているのだが、自分の犯した過ちをむしろ武勇伝のように語り自分の生活の糧として生きている。
「100人VS1人で戦って勝った。」とかちゃんちゃらおかしい。
過去に自分がした過ちを棚に上げて偉そうなことを言っている彼にとても苛立ちを覚えた。
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いじめについて。
人間は群れて生きたがる動物であり(特に日本人はその傾向が強いように思われる。)自分とは違うものに対して違和感を感じ
排除もしくは無視しようとする。
これは俺の生きてきた人生経験から基づく人間の定義である。
いじめはいけない。
確かにそうだ。
正直やられている方は地獄であり、やっている方は単なる
暇つぶし的な感覚でしかないと思う。
成人式もあり同窓会があった。
当然同級生とも出会うわけだが、かつて俺を仲間はずれにした
集団とも会った。
あちらから会話をしてきたが当然懐かしいね〜ぐらいの
内容に過ぎなかった。
決して過去のことに触れなかったのはいうまでもない。
別に何かを求めているのではないが、いじめた側というのは
いじめられた側の気持ちなんて到底知る余地もないだろう。
俺ははっきり覚えている。
正直、死にたいと思ったこともあった(自分は臆病なため死ねなかったが)。
いじめられることで人生が壊れる奴も中にはいる。
正直俺も性格が多少歪められたことは事実だ。
それに過去と比べ断然人前で話すことが苦手になったし
人に否定や怒られることが怖くなって臆病になった。
自覚しているだけマシかと思うが辛い。
つらいことを乗り越えて今の俺がある。
つらいことを乗り越えたからこそ他人への思いやりが持てる。
「優しすぎる」って理由で振られてもまた人を愛そうって思える
でも辛い事を経験した人は必ずどこかで逃げ道を作る。
俺の場合はチャットだ。
3Dチャットで依存していた時期があった(現在進行形でもある
正直現実逃避できる時間が多少ナリともなければ自分という人間は原型を保っていられるだろうか?
そう思うときもある。
今日の日記はとても重い話であるが
特にいじめについては
俺は決して癒されることのない傷を2,3個負っている。
今その犯人に謝罪されても決して癒されることもないし
それで満足かというとそうでもない。
今現在ではむしろどうしていじめをやめさせるように
自分が工夫しなかったのかと少々自己嫌悪的な部分もある。
いじめを通して自分が良くなった分と悪くなった部分の両方あった。
しかし、悪くなった部分の方が多くて
それを自分なりに良くしようと模索して
今を生きてる。
それが20歳の俺。
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